浪曲と築港高野山
「浪曲塔」の歴史
築港高野山釈迦院には、浪曲のルーツとして知られる「藤原澄憲(ちょうけん)碑」がありました。藤原時代、社会教化を目的として祭文(さいもん)・長歌連(現在の浪曲)を世に広めた、浪曲の元祖「少納言藤原澄憲碑(1126年~1203年)」を、大正6年 関西浪曲界の元締二代目広沢寅吉が建立しました。なぜ、この地(大阪港)に建立されたと申しますと、大阪港千舟橋に当時住んでいた広沢寅吉が自宅敷地に港湾労働者の憩いの場として、「築港廣澤館」を大正3年建設し、浪曲が大いに栄えた歴史があります。
しかし、第二次世界大戦大阪大空襲において、築港高野山もろとも浪曲塔はこのような無残な姿になりました。
そののち、昭和29年に浪曲親友協会(当時任意団体)に所属の多数の浪曲師・曲師の寄付により再建・建立されました。
この浪曲塔には、藤原澄憲を祖として明治初期これを大衆化して、京山恭安斎・中興の祖 桃中軒雲右衛門(1872-1916)、二世吉田奈良丸それを継承して浪曲界で活躍された浪曲師が合祀(ごうし)されています。